丹後七姫・京丹後七姫
各姫関連項目リンク集
羽衣天女
(はごろもてんにょ)
峰山町にゆかりの姫。旧・峰山町のマンホールデザインにも採用されている。
全国に残る羽衣伝説のうち、丹後の磯砂山は最古の羽衣伝説の発祥地であるという。山頂には天女のモニュメントが、中腹には天女が水浴びをしたと云われる女池があり、麓にある乙女神社は、参拝すると美しい娘を授かるという。
間人皇后
(はしうどこうごう)
丹後町にゆかりの姫。
聖徳太子の実母である穴穂部間人(あなほべはしうど)皇后のこと。蘇我氏と物部氏の争乱を避け、太子とともに避難していた場所が現在の京丹後市丹後町間人であるという。
争乱が鎮まり、2人はやがて都に戻っていったので、「皇后がこの地から退いた(退座した)」場所として、この地を「間人」と書いて「たいざ」と呼ぶようになった。
小野小町
(おののこまち)
大宮町にゆかりの姫。
平安時代を代表する歌人・小野小町は、その正体は定かではないものの、一説によれば絶世の美女であったといいます。深草少将に見初められ、その熱烈すぎる求愛から逃がれるために、大宮町の五十河にたどりつき、平穏な日々を手に入れたと伝えられる。
細川ガラシャ
(ほそかわガラシャ)
宮津市と弥栄町にゆかりの姫。本名は「玉子」。
宮津藩主の細川忠興に嫁いだ明智光秀の娘で、「本能寺の変」で逆臣の娘となったため、連座を恐れた夫の忠興によって山深い味土野の地に幽閉(庇護)された。
この時に伴った侍女の影響で、キリスト教を信仰するようになり、後に洗礼を受けて「ガラシャ」の名を賜る。
静御前
(しずかごぜん)
網野町にゆかりの姫。
源義経の妻・静御前は、現在の京丹後市網野町磯に生まれた。父の死後、母とともに上京した静は、都でも指折りの白拍子として有名になり、神泉苑にて後白河法皇の命で雨乞いの舞を奉納した際、池のほとりで源義経と出会ったという。
平家滅亡後、兄の頼朝に追われる義経と生き別れになった静は出家して故郷に戻り、夫の無事と殺された子の冥福を祈った。網野町磯には、静御前にまつわる様々な伝承が残る。
丹後七姫
安寿姫
(あんじゅひめ)
宮津市にゆかりの姫。
浄瑠璃などのむかしばなしで語られてきた悲劇の姉姫。東北地方の太守の娘でありながら、不幸な巡りあわせによって由良の長者の奴隷となり、幼い弟を逃がすために自らは命を落とした。亡骸は由良の村の人々によって丁重に弔われたという。森鴎外の小説『山椒大夫』で広く知られ、由良の国道沿いに碑が建てられている。
京丹後七姫
川上摩須朗女
(かわかみのますのいらつめ)
久美浜町にゆかりの姫。
古代・丹波国の王として君臨した丹波道主命の妻。娘の日葉酢比売は垂仁天皇の后となり、景行天皇ほか倭比売など四男一女をもうけた。
久美浜町には、川上摩須朗女の屋敷跡とされる場所が現在も伝え残されている。